合気祭がありました。
私も、一応、指導をさせていただいている一人として、参加して来ました。
私は、天津祝詞の奏上をさせていただきましたが、奏上の参考にするために、色々な方の祝詞の唱え方をyoutubeで見てみました。
祝詞の唱え方は、人や場所によって全然違いますね。かなり違うため、結局、どの唱え方が好きかという視点で考えてしまいます。
つまり、明確な正解が無いため、色々な人の祝詞の奏上を参考にして唱えてみても、自分が正しいという思いに至る事ができません。
それどころか、唱え方が混ざってしまって、かえっておかしくなることもありますから、人の方法を真似すぎない事が重要な気もします。安定してできるのは、あくまでも自分の方法として行える場合なのでしょう。
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合気道でも同じことです
合気道も同じことで、指導する人によって本当に理合が違うものです。自分のやっていることが正しいのか不安になる事もありますが、どれだけ不安になろうとも、自分の方法論として考え続けないといけないわけです。
先生に習った技も、そのままでは使いづらいですね。先生と自分は、身長や年齢、筋力なども異なるはずなのですから当然ですね。
先生と同じ方法論では、先生の技の再現は難しいでしょうし、できたとしても、技の形が変わってしまう可能性も高いと思います。
なんせ、方法論が正しいのに、他の部分が異なるわけですから、技の形は変わってしまいますよね。
技を習得するためには、自分自身の性質と性能を把握して、しっかりと理解したうえで、習ったことに融合させる事が必要です。
結局のところ、習った事の理解よりも先に、自分自身の事をよく理解している事が重要なのだろうと思いますね。そんな事を考えていた合気際でした。
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