「気」について説明すると

手の開き

20160610_130004最近では、僕も、合気道の指導中に「気」という言葉を利用します。

ただ、世の中で利用される「気」という言葉とは意味が違うと思います。

医療的な効果の部分を除けば、その効果はそっくりのようですが・・・・・。

結論から言ってしまうと、僕にとって気という言葉は「力」そのものなのです。

全身で生み出す力であって、養神館さんで中心力と表現されている力と似ているのではないかと思います。

世の中の気という言葉と区別するために「呼吸」とか、他の言い方を工夫してみた時もありましたが、イメージがかえって難しくなってしまうため利用をやめました。

しかも、植芝吉祥丸師範が著された本に「臍下丹田より気を発す・・・・」と書かれたのを目にしたことがあって、自分の力の出し方の感覚も同じだったので、それなら「気」と表現してしまっても良いかと考えました。

ただ、その正体は「移動力」の認識と活用なのです。

僕の使っている「気」という表現の正体はそのくらいのものです。

目次

気の技「遠当て」

僕の「気」は移動力なので、残念ながら離れている人に影響を与える事はできません

移動力を力に変える方法では、流れを産みだす事はできても、触れていないものに影響を及ぼす事はできないからです。

もちろん、相手と自分との間の空間を凝固させるような特殊能力を持っていたら可能ですが、今のところそんな能力の存在は聞いた事がありません。

「遠当て」というのは今のところ夢の世界ですね・・・。

という事は、僕の「気」は、他の武道で言われる「気」とは違うものなのでしょう・・・・。

 

「気」をどのようにイメージするか

僕の使う「気」という言葉は、移動力という具体的な力の表現でしかないので、本来は利用するべきでは無いのかもしれません。

しかし、「気」という言葉は意外とイメージがしやすいとう利点を見逃してはいけません。

移動力というのは本来直線的な力なので、イメージは「光」のようなものになります。

ただ、力の流れそのものである事に変わりはありませんし、曲げて使う事もできるので「光」では少しイメージと異なります。

光はどちらかと言えば止まっているように見えますし、動いているにしても早すぎるのです。

そこで「水」という表現を利用する事も有ります。

これは、かなり近いイメージを持つことができるのですが、どうしても放水のイメージが伴ってしまいます。

流れが太いイメージをもってしまいますし、光に比べて直線性が無くなります。

しかも、物質である感覚が強すぎるんで、なんか違うと思えてきます。

これは要するに、既にハッキリしたイメージを持つものを利用しようとするとどこかにズレが生じてしまうという事だと思います。

その点「気」というイメージは曖昧なのです。

一人一人が自分なりに最も合ったイメージを作り出すことができるものです。

効果が同じになるようにイメージするのであれば、どのような感覚で気をイメージしても良いと思います。

もしかして、世の中の「気」が多様化してしまっているのって、そんな理由なのかもしれませんね。(^_^;)

 

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