杖術の点・線・面

杖 上段受け 開祖 植芝盛平翁

tue杖術はとても人気があります。

まあ、杖を振り回すのってわりと気分が爽快ですね。(^_^)

ストレスが多い人なんか、特にやってみると良いかもしれません。

目次

杖術の点・線・面

さて、杖の稽古をする時に、点・線・面の意識ってありますか?

杖術の稽古を考えてみると、杖先は点ですね?杖そのものは線ですよね?

では、面って何でしょう??

これは、僕の個人的な意識なのかもしれませんが、杖を回転させる時の軌道を上から見たものです。

杖が回転すると円の面になりますね。

例えば、組杖の稽古の際に、相手の上段突きを、受け杖で斜めに逸らしたとします。(通常、上の開祖の写真ような杖の角度になります。)

その後、相手の面、膝等を打ち込もうと考えた時に、杖が回転して通る事ができる軌道が面です。

この面上に何かがあると、杖が当たってしまって回転させる事ができず、相手に届かなくなります。(当たり前の話ですね(^_^;))

ですから、相手の打ち込みたい部分に至るまで、杖の回転軌道が確保できている必要が有ります。

ところが、実際、そのような軌道は確保できていないなぁ…と感じる打ち込みを拝見する事があります。

例えば、相手の膝まで打ち込む軌道は確保できていないのに、打ち込み終わりは膝の位置に来ているのです。

この場合、どう解釈しても、攻撃がカーブしているはずなので、杖の有効な威力を確保できていない事になります。

軌道を意識した稽古

僕は、杖がどういう角度であれば、そこから回転すると、相手のどの部分に打ち込む事ができる・・・・というように、意識して稽古しています。

もし、相手と自分の間に、杖の回転軌道を確保することができなければ、いったん離れないと相手に攻撃をする事はできません。

一旦離れてしまえば、杖を外から打ち込む事ができます。

しかし、外から打ち込むという行為は、直線距離から遠くなり、遅いため、相手には必ず止められてしまうと思います。

外を使わなければならないようになった場合、現実的にはかなり不利な状況に追い込まれたと考える事ができます。

杖の稽古というのは、相手の杖の軌道を逸らしたり、外したりしながら、自分の杖の軌道を確保するような稽古をするイメージです。

そのため、相手の杖の軌道と、自分の杖の軌道を、常に考慮しながら稽古をするのが良いでしょう。

このように考えていくと、杖を動かし始めたその時から、次の動きの為の準備が始まっているわけです。

そうして、型の中の動作に無駄な動きが全く無くなるように、理解を深めていきましょう。

ほんの僅かな動作でも、その必要性を求めて理解していけば、型稽古は本当に深い稽古になります。

かなりマニアックな話になってしまった・・・。

ま、いつもそんなんですけど (^_^;)

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コメント

コメント一覧 (2件)

  •  ≪…点・線・面の意識…≫は、数の言葉ヒフミヨ(1234)が大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】に収斂(修練)する記事を見つける。 

     
    もろはのつるぎ
    わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。

    (1) —————————————
    サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
    もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
    主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」

    〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕

    「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」

    「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」

    「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」

    (2) ——————————————
    下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
    555553555553555555553555555555555555355555555553
    555555555555555355555555535555553555555555555555

    普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。

    「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
    555553555553555555553555555555555555355555555553
    555555555555555355555555535555553555555555555555

    (3) ——————————————
    NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。

    (4) ——————————————
    ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
    病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。

    ハーディが
    「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。

    「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」

    実は、1729は次のように表すことができる。
    1729 = 123 + 13 = 103 + 93
    ラマヌジャンは1729が

      A = B3 + C3 = D3 + E3

    という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。

    (5) ——————————————
    数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。

    「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」

    「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」

    「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」

    (6) ——————————————
    和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。

    有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。

    (7) ——————————————
    「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。

    私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
    「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。

    だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。

    線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。

    by nsb01474

    • 簡単に約してしまうと、固定概念に捉われないようにという事でしょうか?
      確かに、大切ですよね。

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